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西淀川のご近所散歩道
尼崎散歩道  寺町編
 尼崎にこんな素敵なとこがあったのね!

私が西淀川と同じ文化圏だと勝手に思っています尼崎にすてきなところがあるのをご存知ですか?

阪神尼崎の線路沿いを海側に出屋敷方面に少し行きますと3.9ヘクタールの広大な寺町が現れます。

尼崎がかつての城下町だった面影を現在に伝えています。

(お城は今の図書館のあたりで前を流れる川はお堀の一部であると聞いています。詳しくはコラム尼崎城参照ください。近日もっと掘り下げたコラムを執筆いたします。)

尼崎のように今日までまとまって存続するのは全国的に見ても数少ない存在です。

近世の城下町で、寺院が集中している地域を寺町と呼びます。

16世紀後半、豊臣秀吉によって全国統一がなされ領主たちは領主権力を強化するための施策の一つとして城下町の建築をはじめました。

城下町の建築は支配関係を固めることが目的ですから、寺院も支配の網の目に組み込まれ、従来、町場や領内の各所に散らばっていた寺院を1ヶ所に集めたり、城下の要所に分散して配置したりしました。

典型的な寺町の形成は豊臣秀吉による京都の都市改造に始まったと言われています。

この例は1610年(慶長15年)の前田利常による金沢の城下町の整備、1615年(元和元年)の松平忠明による大阪の城下町整備に引き継がれ、全国に及んでいきます。

なぜこのように寺院が配置されたということですがその目的は。

1.城下町防御のもっとも弱いと思われる地域を固めるために寺院が利用されました。大きな建物と広い境内がいざというときの出城の役割を担っていました。

2.宗教政策です。寺院を集中管理することは寺院勢力を統括しやすいからなのです。この背景には戦国時代の一向一揆に代表される寺院勢力との対立という経験があったからです。

 

1617年(元和3年)今の大津から譜代大名戸田氏鉄氏が5万石の尼崎藩主として入部してきました。入部から3ヵ月後の1617年10月、尼崎に新城を築くよう幕府に命令が伝えられ、京都大阪の守りを固める役割が、三河衆の一人築城の名人戸田氏に託されました。

城内の総面積約13万平方メートルの広さに、4重の天守閣を持つお城が築かせたのも、外様大名の多い西国や山陽道を守るため大阪の西を固める支城としての重要さが認められたからです。

新城の建築と共に進められたのが城下町、寺町の整備でした。城を中心に東西に町場が整備され、東は今の大物から、西は貴布禰神社のあたりまでが城下町です。

明治中期の地図を見ますとその頃の町並みが確認できます。

(脱線しますが友人の城郭研究家によりますと出屋敷という地名は尼崎城の出城があったところからついた地名だそうです。)

寺町には、城郭建設予定地にあった寺院をはじめ、中世以来町場にあった寺院、戸田氏入部に従い大津から移ってきた寺院も集められました。

現在の寺院の区画は当時と変わらず約400年間幾多の災害を乗り越え、先人達が守りつづけてきました。尼崎市街地の中心にありながら、今日にいたっているには極めて貴重な存在といえます。

寺町11か寺のご紹介

1.本興寺(ほんこうじ)法華宗、開明町3−13本興寺は法華宗(本門流)の大本山で、開祖日隆上人は尼崎巽浜の米屋二郎五郎を保護者として尼崎に布教しました。また上人は寺内に勧学院をつくり、門弟の根本道場として後継者の育成に努めました。広い境内の中には枯れたことのない霊水井戸がありおいしい井戸水が湧き出ています。沸かしてから飲んでくださいとありましたがそのまま飲んでもOKでした。近所のおばさんたちが、ペットボトル持参で汲みにきていました。

2.全昌寺(ぜんしょうじ)曹洞宗、開明町3−11戸田氏の菩提寺として大津市に建立されましたが1617年(元和3年)戸田氏が尼崎藩主として移封入城の際随伴した雪山呑秀和尚によってこの地に再興されました。戸田氏は甲賀忍者とも親しかったといわれています

3.広徳寺(こうとくじ)臨済宗、寺町8 京都大徳寺派の寺で、言外宗忠が開きました。大徳寺文書などにも名は記されており、太閤秀吉ゆかりの寺としても有名です。どんなゆかりかと申しますと。。。1582年織田信長が明智光秀に倒されたときに遠征先から急いで戻ってきた豊臣秀吉は途中軍勢から離れ一人尼崎にさしかかった。しかし明智方の武将に追われ広徳寺に逃げ込んだ。そこで髪をそり僧に化け台所で味噌をすっっていた僧に紛れ込み追っ手から逃れたという。そのときのすり鉢とすりこぎが広徳寺に伝わっています。(手前味噌ではございますが紹介させていただきました。)

4.甘露寺(かんろじ)浄土宗、寺町6 1711年(正徳元年)寂誉上人代に信者岸田屋浄順の請願により城主松平遠江守は常行念仏三昧道場の許可を与えました。それ以来、今日にいたるまで別寺念仏会を修行しています。本堂の屋根の上に鳳凰が輝いています。1991年桃山時代の様式を取りいれて改築しました西方浄土極楽鳳停殿です。

5.法園寺(ほうえんじ)浄土宗、寺町5 境内には5輪塔があり、秀吉から九州での失策の責任を取らされて切腹を命じられた北陸の武将佐々成政の墓と伝えられています。寺宝として後陽成天皇の和歌一首の掛け軸があります。悲運の武将佐々成政はふんどしで有名な越中(富山県)で冶水に尽力されたり真冬の北アルプス越えという離れ業をやってのけたすごい人でしたが豊臣秀吉の命令で1588年尼崎で切腹しました。

6.大覚寺(だいかくじ)律宗、寺町9 長洲庄の地元支配を握っていた大覚寺は鎌倉末期から港湾都市尼崎の発展に大きな貢献をしました。また近世の尼崎城が構築されるまでは大覚寺城として宗教・政治・経済・文化に活躍しました。

7.長遠寺(ちょうおんじ)日蓮宗、寺町10 日蓮宗の有名なお寺として知られています。通称を法花寺とも言いました。1350年(鑑応元年)京都妙龍院の高弟、永存院日恩(当時100歳)が開いたと伝えられています。美しい多宝塔と本堂が国の重要文化財です。本堂は1982年の大修理で元和9年(1623年)新築とわかりました。

8.如来院(にょらいいん)浄土宗、寺町11 古くは神崎釈迦堂といい創建は神崎の地です。当院には平安末期に作られた檜の一本造りの釈迦如来像が祭られています。神崎は東淀川の江口の里と並びもともと遊女で有名なところでありまして、鎌倉時代に極楽浄土に往生することを願って神埼川に入水した5人の遊女の髪が祭られています。なにかあったんですかね?

9.専念寺(せんねんじ)浄土宗、寺町12  平重盛の菩提寺となり、朝廷から朱塗りの山門を許されたと伝えられている。通称赤門の寺と呼ばれています。重盛は仏法に帰依深く冷静沈着な理想的な人として平家物語に描かれています。

10.善通寺(ぜんつうじ)時宗、寺町3  時宗四条派大本山京都4条の金蓮寺に属し、近江木之本の浄信寺、尾張熱田の円福寺と共に金蓮寺下の御三か寺のひとつです。レンガ塀がしっとりと綺麗で西安あたりの路地に迷い込んだ雰囲気にさせられます。日本のお寺でレンガの塀は私の知っている限りではここだけです。境内には八角堂があります。首だけの地蔵さんがまつられていまして「首なし地蔵」と信仰をあつめています。首だけなの意なんででしょうか?     香川県の四国88ヶ所の名勝に善通寺がありますが何か関係があるのでしょうか?少し調べてみます。向こうは弘法大師出生の地です。

10.       常楽寺(じょうらくじ)浄土宗、寺町1 元和年間、藩主戸田氏鉄の尼崎移封で大物より寺町に移され、1635年(寛永12年)には大垣に分寺が建てられ同じ常楽寺として残っています。平成4年本堂が再興されました。

色々と尼崎の寺町についてご紹介差し上げました。まずはぜひとも行って見ましょう。閑静ないいところです。昔の地図もあわせて紹介します。よーく見ると尼崎の城下町はお堀(運河)に囲まれているんですね。こういうのを中世の環濠集落というのですが、今回コラムを書くにあたり初めて気が付いた次第です。

ご近所の環濠集落で有名な地区をいかにご紹介します。

(環濠集落だけでなく寺町も紹介します。)

1.平野郷(JR平野駅周辺。町ぐるみ博物館で有名です。面白いのでお勧めします。)

2.富田林の寺内町ここも昔ながらの寺町です。

3.奈良八木駅にあります今井町。ここはすごいですよ。江戸時代にタイムスリップできます。司馬遼太郎「街道をゆく 7巻」をご参照ください。詳しく紹介されています。

4.堺市は江戸時代には環濠集落の最大規模を誇っていました。戦災で規模は小さくなりましたが現在でも寺町が形成されています。

5.上町台地界隈大阪を代表する寺町。いろんな坂がありまして情緒があります。

6.京都全域さてお寺が何軒あるのでしょうか?京都の経済の何割かをお寺さんが担っているのをご存知でしたか?(環濠集落ではありませんが)

7.野里住吉神社周辺。ここが意外と穴場です。近所の人はぜひうろうろしてください。

そのほかにも近畿には環濠集落がまだまだありまして今後ぼちぼちとご紹介差し上げます。


写寺町を紹介するガイドブック表紙。忍玉乱太郎
の作者尼子騒兵衛作です。さすが尼崎在住。地元を
大切にしています。

お寺の写真1(本興寺)から写真5(法園寺)
写真6(大覚寺)から写真11
(常楽寺)まで。




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