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![]() 田蓑神社紀貫之歌碑(a11) ![]() 田蓑神社佃漁民ゆかりの地碑(a17) |
佃島、佃漁民は幕府の隠密(スパイ)説 佃煮で有名な東京の佃島のルーツは西淀川の佃であるのをご存知でしたか?何で東京と大阪の佃が関係あるかをご紹介します。 時は遡り今から414年前(天正14年、1586年)徳川家康が当時、田蓑嶋といわれていた佃に立ち寄り神崎川上流にある多田神社(現在の兵庫県川西市多田神社)に参詣しようとしたときに渡し舟が無かったので(神崎川出水説あり)佃の漁民が漁船を繰って家康一行が川を渡るのを助けました.その縁により田蓑島漁民と徳川家の結びつきは強くなります。このとき家康は漁民たちに漁業だけではなく田も作れ、と命じました。それ以来、田蓑島は佃に改名されました。(田んぼを作れ→作る田んぼ→作る田→佃 ばんざーい、ばんざーい となったそうです。)川を渡るのを助けた恩賞で播磨、網干、室津島などの海上隠密方(情報収集機関―――スパイ)を命ぜられました。家康は豊臣家との戦いに供え中国地方、四国、西国一帯の海辺の様子を調べ、また隠密行動をとる諸士を助けて船を出していました。そういった行動を助けるためにも家康から佃漁民に対し佃島由緒書冩(佃にある田蓑神社のご神体です)という幕府お墨付きのご朱印状が渡されました。そのご朱印状を持っていますと日本全国で漁の名目で舟が出せました。佃漁民と家康の思惑が一致したのでしょう。佃業民もなかなかのやり手で、豊臣家が滅びたあと幕府の態勢が安定し隠密活動の必要がなくなってからもご朱印状をトラブルが起こるごとに活用していたようです。また隠密と同時に将軍への献魚の役を勤めることとなりました。其の後毎年江戸おもてに詰め献魚の役を勤めていましたがこれでは往復がわずらわしいので寛永7年(1630年)江戸鉄砲州の東干潟百間四方の地を移住地として賜らんことを佃17軒のものより願い出ました。許されてこの地に移り本国の地名を取っていまの東京都中央区佃島が誕生しました。現在東京佃島にある住吉神社の宮司の平岡さんは田蓑神社からの分家で当然親戚同士です。築地本願寺の墓所である和田掘廟所には江戸にはじめに入植された大阪佃の漁師のお墓には佃島漁師27人と大和田村漁師6人これに田蓑神社宮司1名の総数34名の墓が並んでいます。 この地で採れるえぶな、白魚、いかなごは名物土産として有名でした。現在東京の佃島には佃煮やが3軒ありますが西淀川の佃には佃煮やはありません。田蓑神社18代目宮司平岡公仲氏によると昔から佃煮やは西淀川には無かったそうです。 ちなみに平岡氏の祖先は佃にくる前は北河内の枚岡(石切さんの近所に枚岡神社という立派な神社があり昔は平岡神社と書いていました)の出身です、佃にお住まいの郷土史家の見市さんをはじめ、つくだの原住民はなぜか河内出身の人が多くいます。その昔生駒の山のふもとまで海が入り込んでいましたので、水上ルートで移り住んできたのでしょうか? 古代のロマンを感じませんか? 詳しくは都市の中の漁民の島。に詳しく紹介されています。 |
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| 姫島神社の阿迦留比売命(アカル)姫伝説 姫島神社は難波八十島の比売島の旧知で、応神天皇朝に開発され創立されたと伝えられている。明治5年西成郡第5小区の総氏神として郷社に列せられました。 古老の語り伝えている姫島は、往昔大阪湾内の一孤島であり難波八十島の比売島である。奈良、平安朝時代わが国の文化発展に伴い、三韓との交通旺盛なのに伴い、海上の要衝としてその名を知られ大村をなして終始一村をもって独立し、西成郡における物資の集散地でありました。応神天皇朝、新羅国より女神渡来して当地に留り給うた。すなわち女神は当社の主祭神である阿迦留比売命(あかるひめ)である。と姫島神社の案内にあります。 昔の朝鮮(新羅)のお姫様がやってきたなんてロマンあふれる伝承です。もう少し調べて見ますと大阪だけでも姫島以外にも南区高津町の高津宮、東住吉区平野町のあかるひめのみこと神社、同区内にある喜連町にある楯原神社にもあかるひめをお祭しています。 もっと西に目を向けると九州の筑前国に二ヵ所、筑後国に二ヵ所と九州から大阪へあかるひめ神社がつながっています。これらのあかるひめ神社の所在をつないだ線がどうも古代朝鮮から博多湾の糸島水道に上陸してから近畿各地やってきた渡来人の行程を示している様です。佃島の祖先は北河内の出身の人が多く北河内のルーツは渡来人にあるというのをよく聞きます。 日本の中の朝鮮文化(第二巻)金達寿(きむたるす)氏著に詳しく紹介されています。 |
![]() 現在の姫島神社(b1) ![]() 明治時代の姫島神社(sn-2). |
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| 大和田城資料募集中!! 大和田城 ![]() 石山合戦陣地略図 !大和田城碑 |
大和田城 関西スーパー、ビックパワーのあたりに大和田城跡50mとの看板がありまして見に行ったことがありますが、大和田城碑が大和田小学校の中にありました。 この碑はもともと城したと呼ばれた城ノ町(大和田五丁目市営第1住宅)にあったのを移したものです。 碑文には天正8年織田信長の命により阿波仁衛門ここに築城す。廃城歳月不祥とあります。 当時の大和田は海沿いの島で中島は一向宗(浄土真宗)徒が多く、天正年間の中島一揆では多くの犠牲者をだしています。中でも西淀川の郷民(住民)は先鋭的であったようで、天文五年(1536年)の本願寺証如上人日記には、中島5か所の衆として野里、大和田、御幣島、海老江(福島区)、3番(東淀川区)をあげており、彼等は強力な武装集団で、本願寺直参であったとも言われている。 元亀元年(1570年)本願寺と織田信長のあいだで石山合戦が始まるが、前述のような背景もあり本願寺の武将下間氏が大和田に出城を築いている。しかし天正3年(1575年)中津川で織田方の武将荒木村重と戦って敗れ、村重は大和田城を攻め落とした。 天正4年、村重は信長の命で石山本願寺包囲のため吹田、尼崎、など10ヶ所に城を築いたが、その中のひとつが大和田城で、阿波仁衛門に城を守らせている。そして天正6年、村重は信長に謀反を起こしたが敗れ,仁衛門は村重にくみせず信長の軍門に下る。其の後も合戦は続くが,天正7年大和田合戦の最中に大きな地震があり,人馬が驚き陣形が乱れ、寄り手側に多くの溺死者が出たという逸話もつたわる。 天正8年(1580年)に石山合戦も終るが、この年に織田信長が阿波仁衛門に築城を命じたのは一向一揆の再発や、毛利水軍に備えたのであろうか。 いずれにしても大和田が軍事的要衝の地であったことは間違いない。 ちなみに石山攻めの最前線基地は野田城(JR野田駅あたりでした) 西淀川区のお寺はいくつあって何宗が多いでしょうか、 昔からあるお寺に限定して調べましたさすが信長の本願寺攻めを防御する大和田城があっただけのことがあります。25ある仏教系のお寺のうち浄土真宗本願寺は12寺あります.やく半数です。 |
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| 大和田繁華街 阪神本線千舟駅を出て左に行くと千舟大橋である.その橋を渡ると大和田繁華街である。 半世紀以上前には340軒の商店が並びこれに密接し250軒の市場店がありました。 芝居小屋(金明館)映画館が3館(大和田クラブ、大源座、金春座)、カフェ街があり大和田銀座と呼ばれ20軒ぐらいありました。鉄筋コンクリート作り区役所まであったそうで、尼崎、野田、十三の商店街に引けを取らないぐらいの賑わいを有していました。と過去形で書かなければいけないところがさびしいのですが.私の子供の頃には野里の住吉神社の周辺に映画館が数軒ありましたし姫島駅前にも映画館があったのを聞いたことがあります。 しかし漁師町の大和田がこれだけの栄華を誇ったと言うことは水運の中心地だったことを物語っています。 写真(現在の大和田商店街) |
![]() 現在の大和田商店街 |
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![]() 摂津名所絵図大和田鯉つかみ(k31-1) |
西淀川古老の話 大和田地区古老の話 大和田の鯉つかみ―――わけても、佃、大和田、百島、大野、福にかけて鯉漁は有名なもので(大和田の鯉つかみ)というて名所図会にも(なんとなく鯉は浮けり春の水)と載せて、当時の快感を忍ばせている。鯉つかみはどいうふうにするのか、川の中のは古い杭が残っていて、そこには投網は打てない。そんなところに鯉がいる。その杭の四方に網を張ると、鯉はわが身の危険をのがれんが為、石の間に頭を突っ込んだり、杭と杭の間に入っていくのが鯉の習性、、鯉はあまり網にかからないのです。鯉をつかむ人は網の中で鯉を見つけるのですが、網の中では鯉は非常におとなしいのです。そこで杭と杭の間にあたまを突っ込んでいる鯉に前のほうからまわって自分のわきの下に手を持っていき、後ろの方に手を回すのです。こうするとわきの下が暗くなり、鯉はそこへ頭をよせてきます。そこで鯉の目をふたするわけです。こうして持ち上げ船で用意している玉網でうけてもらいます。 |
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| 西淀川古老の話 福地区の古老の話 福地区はちょうど潮分けに位置し、海水、淡水、の魚に恵まれていた。特に貝類(とりがい、あけみ、しじみ、はまぐり、あさり)がよくとれた。とりがいは底引きあみのようなもので採り、乾物にして雑魚場(今の中央市場)に出荷したり、行商に出かけて売ったりした。魚は大阪雑魚場に販売したり、大阪市中へ売りに行く(福の行商)としてゆうめいでした。明治末期の福村は戸数400戸でその内200戸が漁士そのほかは魚介類の行商で、農家はわずか10パーセントほどでした。 |
![]() 昭和5年福漁港(k50-3) |
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![]() 田園風景・立派な農家(k53-2) |
西淀川古老の話 佃地区古老の話 佃本島も大半が農地と葭州(あしす)で、昔から佃千軒といわれた民家は北之町、中之町、 南之町に集中し、3丁目以南にはほとんど家はなかった。農家は割と大きな家が多く、広いゆったりした土蔵つきの家並みがそろっていた。庭にはみかんの木がありほとんどの家で鶏を飼っていた。今考えるとおかしなことであるが(佃の肥たんご百六つ)といわれるほど佃川に面した農家におおきな肥つぼが道に面して、たくさん並んでいた。そのときには、その前を通っても大切な肥料であるから臭いのが苦にならなかった。 この川に面してたくさん設けられていたと言うことは、当時大阪市内の家庭用し尿を汲みに行き船から陸揚げに便利な様考えた位置にあったものである。 |
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| 西淀川古老の話 川北地区古老の話 現在の中島派出所から現市営住宅の建っている附近に川北村役場と小学校があった。この地区はおもに農業を営んでいました。空は澄み渡り畑にはサツマイモ、すいか等がさいばいされていました。いもは甘芋といいすいかは新田すいかといって各方面でしられていたものです。夏の最盛期には生産品の品評会が催され、学校内に品々が展示されそれぞれ等級がつけられ競い合ったものです。品評会の中日には前の神崎川で小船の競争があって各村上げてお祭騒ぎしたものです。 |
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